『平成の怪物』松坂大輔引退!引退後は指導者として活動?

「平成の怪物」として日本のみならずメジャーリーグでも活躍した埼玉西武ライオンズの松坂大輔投手が10月19日、メットライフドームで引退会見を行い、その後行われた引退試合に先発登板し、23年間の現役生活に幕を下ろしました。

今回は、今シーズン限りで現役を引退した松坂大輔投手について紹介していきます!

また、引退後は指導者として活動する人が多いですが、松坂大輔投手も引退後は指導者として活動する可能性があるのか、こちらについても触れていきたいと思います。

最後まで楽しんでいってください!

松坂大輔のプロフィール

名前:松坂大輔(まつざか・だいすけ)

生年月日:1980年9月13日

出身地:東京都江東区(出生地は青森県青森市)

身長:182cm

体重:92kg

投打:右投右打

所属:埼玉西武ライオンズ

プロ入り前(横浜高校時代)

野球を始めたのは小学3年生の時。

横浜高校3年生の時には150km/hを超す速球と切れ味鋭いスライダーを武器に、超高校級の投手としてプロから注目されます。

ちなみに、高校入学時にバッテリーを組んでいたのが、現在俳優として活躍している上地雄輔さんなのは有名な話ですよね。

甲子園春夏連覇

3年生となった1998年は、春の選抜(第70回大会)では、完成度の高い投球とチームメイトの活躍により他を寄せ付けず優勝。

その年の夏の甲子園(第80回大会)では松坂大輔投手はもちろん、高校野球史に残る伝説の夏となりました。

準々決勝では、PL学園のエースで後に日本テレビアナウンサーとなる上重聡さんと延長17回に及ぶ激闘の末、一人で250球を投げて完投勝利しました。

この試合での諦めない気持ちが、松坂大輔投手にとってプロで長く現役を続けることが出来た原点だと引退会見で述べていました。

翌日の明徳義塾との準決勝では、1イニングに登板し逆転劇を呼び込み、そして決勝では、ノーヒットノーラン達成し春夏連覇を果たしました。

夏の甲子園決勝戦でノーヒットノーランを達成し胴上げ投手となったのは、103回の歴史の中で、松坂大輔投手を含め僅か2人しかいません。

圧倒的な投球をすることから松坂大輔投手は「平成の怪物」と呼ばれました。

ちなみに、この大会では後にソフトバンクホークスや読売ジャイアンツで活躍する杉内俊哉(現巨人2軍コーチ)もノーヒットノーランを達成しており、1大会で複数ノーヒットノーランを達成した極めて異例な大会となりました。

そしてこの年の秋に行われたドラフト会議で、横浜ベイスターズ、日本ハムファイターズ、西武ライオンズの3球団の競合の末に西武ライオンズが交渉権を引き当てました。

ちなみに、1998年は横浜ベイスターズが日本一になった年でもあり、松坂大輔投手も「自分の意中の球団はベイスターズでした」と語っていたため、本人もベイスターズファンも横浜入りを熱望していましたが、残念ながらその願いが叶うことはありませんでした。

背番号は「18」となりましたが、松坂大輔投手は18番をずっと憧れていたと述べていました。

西武ライオンズ入団

ルーキーイヤーだった1999年シーズンは開幕から先発ローテーション入りを果たし、4月7日の日本ハムファイターズ戦でデビュー。

いきなり「155km/h」をマークするなど、プロでも怪物ぶりを発揮していました。

現在は160km/hを出す投手もおり、150km/h後半を出すのは珍しくない日本球界ですが、当時150km/h後半を出す投手はあまりいなかったので、当時から松坂大輔投手が如何に凄かったのかが分かります。

5月16日のオリックス戦では、当時オリックスに在籍していたイチローさんと初めて対戦し、3打席連続と完ぺきに抑えてこの試合にも勝利し、試合後のインタビューでは「プロでやれる自信から確信に変わりました」と語っていました。

ルーキーイヤーの松坂大輔投手は16勝を挙げてパ・リーグ新人王だけでなく、最多勝のタイトルも獲得しており、最多勝は2001年まで3年連続で獲得しています。

高卒で新人から3年連続で最多勝を獲得するのは史上初の快挙でした。

ちなみに、2001年は「沢村賞」も受賞しており、21世紀初の沢村賞投手となりました。

西武ライオンズ時代の松坂大輔投手は、リーグ優勝2回、日本一1回果たしており、投手の柱としてチームに貢献しました。

レッドソックス入団!メジャーリーガーへ!

2006年のシーズンオフにポスティング制度を利用してメジャー挑戦を表明し、ボストン・レッドソックスが5111万ドル(当時のレートで約60億円)で松坂大輔投手を獲得したことは当時大きな話題になりました。

メジャー1年目だった2007年シーズンは15勝を挙げ、メジャーでも怪物ぶりを発揮していましたが、この年チームはワールドシリーズに進出しており、松坂大輔投手は日本人で初めてワールドシリーズで先発を務め、勝利投手となりました。

そしてチームもワールドシリーズを制覇し世界一になりました。

レッドソックスでは2012年まで6シーズン、2013年~14年シーズンはニューヨーク・メッツでプレーしました。

日本代表

松坂大輔投手は日本代表(侍ジャパン)でも活躍しており、2004年のアテネオリンピックでは銅メダルを獲得。

2006年の第1回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)では最優秀選手(MVP)に選ばれ、日本代表の優勝に貢献しました。

そして3年後の2009年に行われた第2回大会でも活躍し、2大会連続で最優秀選手に選ばれ、日本代表の大会連覇に貢献しました。

度重なる故障と闘う日々

国際大会でも活躍した平成の怪物ですが、第2回WBCが松坂大輔投手にとってのピークであり、その後は度重なる故障との闘いでした。

2015年にソフトバンクホークスに移籍し、8年ぶりに日本球界復帰を果たしましたが、故障の影響で在籍した3シーズンで1軍登板は僅か1試合だけでした。(2016年)

ちなみに、ソフトバンクへの入団会見の際に松坂大輔投手は、対戦してみたい選手として、当時日本ハムファイターズに所属していた大谷翔平選手(現ロサンゼルス・エンゼルス)の名前を挙げていましたが、実現することはありませんでした。

2018年には中日ドラゴンズに移籍し、この年は6勝を挙げて「カムバック賞」を受賞し復活を遂げましたが、2019年は春季キャンプで右肩を故障し一軍登板は僅か2試合のみでした。

2020年には14年ぶりに西武へ復帰しましたが、故障の悪化により登板はありませんでした。

現役引退表明

2021年7月、松坂大輔投手は現役引退を表明し、平成の怪物がユニフォームを脱ぐ時が来ました。

そして引退試合となった10月19日のメットライフドームでの日本ハムファイターズ戦では、長年親しんだ背番号「18」を付けて先発することになりました。(復帰当時の背番号は「16」)

引退試合は、横浜高校の後輩である近藤健介選手に対し5球を投げ、結果的には四球でしたが、右手にしびれがあり練習がまともに出来ないくらい故障が悪化している状態で投げれたのは奇跡的なことでした。

松坂大輔投手は事前のインタビューで対戦するバッターに対し「1球で仕留めてほしい」とお願いしていましたが、近藤選手は打つことなく先輩の投球を最後まで見ていましたね。

2球目に投じた118km/hのボールでストライクを取ったことについて松坂大輔投手は「神様が与えてくれたもの」と語っていました。

試合後、松坂大輔投手はライオンズの選手と日本ハムの横浜高校OBにマウンド上で5回胴上げされ、ファンの大拍手を浴びながら、23年間の現役生活に幕を閉じました。

引退後は指導者として活動?

引退して間もないので今後についてはまだ言及していませんが、松坂大輔投手は「大好きな野球に恩返ししたい」と述べていたので、今後は指導者として活動する可能性はかなり高いかもしれませんね。

今シーズン西武は成績が悪いので、もしかすると来シーズンは投手コーチ就任というのも考えられます。

現役を引退した選手がすぐに監督やコーチに就任するのは野球界ではよくあることで、西武の次期1軍監督候補になっている松井稼頭央2軍監督も、引退後すぐに2軍監督に就任しています。

ただ松坂大輔投手は、「野球以外の競技にも興味がある」と言っていたので、まずは外から野球を見て、将来的には指導者になるのもかしれませんね。

まとめ

今回は、現役を引退した松坂大輔投手について紹介していきました!

改めまして松坂大輔投手、23年間の現役生活お疲れ様でした!

私達にたくさんの勇気と感動を与えてくれてありがとうございました!

平成の怪物の新たな活躍に注目です!

最後までご覧になっていただきありがとうございました!

 

 

 

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