日本ハム ビッグボス(監督)に就任した新庄剛志ってどんな人?

今シーズンは5位に終わった北海道日本ハムファイターズは、レギュラーシーズン終了後、これまで10シーズン指揮を執っていた栗山英樹監督が退任しました。

ここ数年は成績が振るいませんでしたが、10シーズンでリーグ優勝2回、日本一1回は立派な成績です。

そして何と言っても、大谷翔平選手を指名し、二刀流として育てメジャーリーグへ送ったことは最大の功績です。

元々素質があった大谷選手ですが、メジャーでMVP候補にまで残る程活躍することが出来たのは、栗山監督の指導があったのは確かなことです。

栗山監督、長い間お疲れ様でした。

そして、新しく日本ハムの監督に就任したのは、かつてメジャーリーグでも活躍し、日本ハムの選手として北海道を盛り上げた新庄剛志さんです!

新庄剛志さんは「監督」ではなく「ビッグボス」と呼んでくれとお願いしており、早くも新庄劇場が幕を開けました。

今回は、北海道日本ハムファイターズの監督に就任したビッグボスこと新庄剛志さんについて紹介していきます!

最後まで楽しんでいってください!

北海道日本ハムファイターズビッグボス(監督)『新庄剛志』とは?

名前:新庄剛志(しんじょう・つよし)

生年月日:1972年1月28日

出身地:長崎県下県美津島町(現:対馬市)生まれ・福岡県福岡市南区育ち

身長:181cm

体重:76kg

投打:右投右打

所属:北海道日本ハムファイターズ ビッグボス(監督)

プロ入り前

子供の頃から身体能力が高く、特に肩の強さは大人よりも投げれる距離が長かった為、父親は何が何でも息子をプロ野球選手にしたかったと述べていました。

後にメジャーリーガーにまでなる新庄監督ですが、意外にも最初は「サッカー少年」だったと述べていました。

キャプテン翼の影響でサッカーを始めたみたいですが、本人曰く「(サッカーは)簡単すぎて飽きてしまったから野球を始めた」と語っていました。

子供の頃から、根っからの負けず嫌いだったみたいですね。

阪神時代

1989年のプロ野球ドラフト会議で、阪神タイガースから外野手として5位で指名され入団しました。

入団当初の背番号は「63」

1、2年目は二軍で過ごす日が長かったですが、3年目の1992年に内野手に変更になったことが転機となり、右中間守備でコンビを組んだ「亀山努(現:つとむ)」氏などと共に、チームを最終盤まで優勝争いをするほど活躍し、「亀新フィーバー」と称されてブレイクしました。

翌1993年からは背番号を「5」に変更し、以降阪神タイガースの主力選手として活躍し新庄剛志監督はチームの顔となっていました。

しかし、一方のチームは当時「暗黒期」と呼ばれている苦しい時期を迎えており、選手もファンも辛い日々を送っていました。

そんな中、華々しく活躍していた新庄剛志監督はチームの光だったのではないでしょうか。

メジャー挑戦!

2000年シーズンオフ、初めて取得したフリーエージェント権(FA)を行使して移籍を宣言しました。

どの球団に移籍するのか注目されていましたが、新庄剛志監督が選んだ移籍先は、なんとメジャーリーグ!

自分に一番合うという理由で「ニューヨーク・メッツ」へ移籍しました。

奇しくもこのシーズンは、イチローさんもメジャーに移籍した時期と重なり、日本球界2人の天才が同時に海を渡ることになりました。(イチローさんは、シアトル・マリナーズ)

しかし、メッツには1年しか在籍、2001年シーズンオフに「サンフランシスコ・ジャイアンツ」へ移籍しました。

そしてジャイアンツで新庄剛志監督は、「日本人で初めてワールドシリーズに出場」という快挙を成し遂げました。

ちなみに、当時ジャイアンツには、MLBシーズン最多本塁打記録を持っているバリー・ボンズさんが主力選手として活躍しており、新庄剛志監督とも交流を持っていたとのことです。

2003年にはメッツへ復帰し、通算2シーズン在籍しました。

日本球界復帰!日本ハムへ!

2003年オフ、新庄剛志監督は日本ハムファイターズへ移籍と日本球界復帰を表明しました。

日本ハムを選んだ理由は、「一番最初にオファーを受けた球団に行く」と決めており、そこが日本ハムだったからです。

当時の日本ハムは、本拠地を北海道に移転してまだ間もない頃だったのに加え、チームも低迷していて苦しい状況でした。

そんな中、新庄剛志監督は2つの約束をしました。

・札幌ドームを満員にする

・チームを日本一にする

ちなみに、当時あるテレビ番組で、新庄剛志監督が契約書にサインする姿をテレビカメラで映させていましたが、これ以降、選手が契約書にサインする姿をテレビで流したことは現在まで一度もありません。

というより、あまりにもプライバシーに関わることなので普通考えられないですね。

新庄劇場開幕!

日本ハムには3シーズン在籍しましたが、この3年間は日本ハムやファン達にとっては夢のような時間でした。

試合前にはゴレンジャーやスパイダーマンの仮装をしたり、札幌ドームの天井から降りてきたり、ある時はハーレーに乗って登場したりと、とにかくパフォーマンスで盛り上げていました。

ファイターズファンはもちろん、プロ野球ファンにとっても、15年経った現在でも記憶に鮮明に残っているのではないでしょうか。

公約達成!現役引退

選手として最後のシーズンとなった2006年は、開幕戦で札幌ドームを満員にしたことで1つ目の公約は達成し、開幕直後の4月18日のオリックス戦(東京ドーム)の勝利後のヒーローインタビューで現役引退を宣言しました。

その効果もあってチームは躍進し、この年はリーグ優勝を果たし、日本シリーズも勝ち抜き、44年ぶりの日本一を達成しました。

そして同時に、新庄剛志監督は2つ目の公約も達成し、有終の美を飾りました。

ちなみに、日本一が決まった瞬間、監督だったヒルマンなど誰よりも先に、新庄剛志監督が胴上げされていました。

今度はビッグボスとしてこの光景を見たいですね。

現役引退後

引退後はタレントやプロデューサーなど幅広く活動していましたが、2010年代に入るとバリ島に移住し、表舞台から姿を消しました。

バリ島では、悠々自適に過ごす傍ら、モトクロスなど新たな挑戦も行っていたようですね。

また、当時久しぶりに日本のバラエティ番組に出演した際、顔を美容整形していたことをカミングアウトし驚かせていました。

現役復帰宣言

新庄剛志監督が再び注目されたのが、2019年11月のことでした。

自身のInstagramで翌年のトライアウトを受け現役復帰を目指すトレーニングを始めるメッセージを投稿しました。

このメッセージは話題になったのは記憶に新しいですね。

そして2020年12月7日に行われた12球団トライアウトで、新庄剛志監督は日本ハム時代のユニフォームで参加し、第4打席でヒットを打っていました。

15年近くブランクがある人が、つい最近まで現役選手だった投手からヒットを打つのは、とんでもなく凄いことです。

強烈なインパクトを残した新庄剛志監督でしたが、残念ながらどの球団からもオファーが無く、現役復帰を断念しました。

日本ハムビッグボス(監督)就任!

トライアウトから1年後の2021年10月下旬、栗山監督の後任として新たな監督に就任したことが正式に発表されました。

実は前年のトライアウト前、日本ハム側から新庄剛志監督に「トライアウト頑張ってください。また一緒にやりましょう。というメッセージが届いており、選手として自分を取ってくれると思っていたとのことです。

しかし、オファーは来ませんでしたが、新庄剛志監督は、このメッセージは何かあるぞと考え、今年1年間12球団の2軍選手を事細かくチェックしていたとのことです。

もしかすると、その時のメッセージは監督就任のオファーだったのかもしれませんね。

いつでも監督のオファーを受けれるように準備をしていた新庄剛志監督は、やっぱり凄い!

そして11月4日に行われた監督就任会見では、ワインレッドのスーツをビシッと決めて登場し、新庄節を全開させていました。

事前に準備をしていたこともあり、監督のオファーが来た時、「1秒」で快諾したと明かしていました。

また、監督としての意気込みを聞かれた際は「優勝目指しません」と宣言していました。

高い目標を立ててしまうと選手はプレッシャーが掛かってしまい、本来のプレーが出来なくなる。大事な試合を1試合1試合勝っていき、9月に入った時点で優勝争いをしていたら、その時初めて「さあ優勝目指そう!」とチームの士気が上がると新庄剛志監督は述べていました。

これまで選手として色々な経験をしてきた新庄剛志監督だからこそ、選手の立場として言えることなんだなと思いました。

まとめ

今回は、北海道日本ハムファイターズのビッグボス(監督)に就任した新庄剛志さんについて紹介していきました!

ビッグボス新庄剛志が率いる来シーズンの日本ハムファイターズが今からとても楽しみです!

最後までご覧になっていただきありがとうございました!

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