「元気ですかー!元気があれば何でも出来る」
この言葉で日本のみならず、世界中に元気や勇気を与え続けた、元プロレスラーで元参議院議員のアントニオ猪木さんが10月1日、心不全のため、79歳で亡くなりました。
今回は、アントニオ猪木さんの長年の功績と供養を兼ねて、猪木さんの生涯を紹介していきます。
請謁ながら、皆さんもお付き合い願います。
アントニオ猪木さんのプロフィール
名前:アントニオ猪木
本名:猪木寛至
生年月日:1943年2月20日
没年月日:2022年10月1日
出身地:神奈川県横浜市
身長:191cm※
体重:110kg※
血液型:AB型
得意技:延髄蹴り、コブラツイスト、卍固め
13歳でブラジルに渡り、16歳だった1960年に興行で滞在先のサンパウロを訪れていた力道山からスカウトされ、同年9月30日にプロレスラーとしてデビューします。
この日は後にライバルとなる、ジャイアント馬場さんもデビューを飾っています。
ちなみに、デビュー当時はまだ本名を名乗っており、デビューから2年後の1962年に、現在のアントニオ猪木に改名し、60年間も活動されてきました。
1972年1月、所属していた日本プロレスを追放された猪木さんは新たに「
新日本プロレス」を旗揚げし、同年3月6日に、東京都大田区の大田区体育館で旗揚げ戦を行いました。
猪木さんが設立した新日本プロレスは、日本に数あるプロレス団体の中で最も歴史が古い団体となっています。
(同じ年にジャイアント馬場さんが設立した「全日本プロレス」は10月に旗揚げ)
新日本プロレスのスローガン「ストロングスタイル」は、猪木さんが唱えた「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」をモチーフとしており、新日本プロレスで猪木さんはこれまで、柔道やボクシングなど、その格闘技の道を極めた強者と対戦してきました。
1998年4月4日、東京ドームにおける引退試合で、ドン・フライ相手に勝利しプロレスラーを引退。
試合後の引退セレモニーで詠んだ「道」は、スポーツ界の伝説の名シーンとなりました。
また、この引退興行では、プロレス界最多となる約7万人を動員し、現在でも1大会におけるプロレス興行の観客動員数記録が塗り替えられていません。
引退後は新日本プロレスの東京ドーム大会など大規模な興行に来場し挨拶をしていましたが、2006年7月の札幌大会を最後に、新日本プロレスの興行に来場しなくなりました。
しかし、2022年9月1日に、新日本プロレスの終身名誉会長に就任し、10月10日の両国国技館大会で発表される予定でしたが、その9日前に亡くなられたのは残念です。
政治家として
アントニオ猪木さんは、プロレスラーだけでなく政治家としても活躍されており、1989年には「スポーツ平和党」から、2013年にも日本維新の会から参院選に出馬し、いずれも当選し、参議院議員を2期務めました。
任期中のアントニオ猪木さんは、1990年に湾岸戦争勃発寸前のイラクに乗り込み、人質に捕られていた日本人を解放したり、1995年には北朝鮮でプロレス興行を実施し成功させるなど、プロレスやスポーツで世界を平和に導くために活躍されていました。
アントニオ猪木さんだからこそ出来た大胆な行動でしたが、利権と自己保身のことしか頭にない今の国会議員の方々には、猪木さんを見習ってほしいですね。
アントニオ猪木名勝負集!
ここからは、アントニオ猪木さんの名勝負集を紹介していきます。
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モハメド・アリ戦
アントニオ猪木さんの名勝負で最も有名なのが、1976年に日本武道館で行われたモハメド・アリ戦です。
当時プロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオンだったモハメド・アリとの闘いに、「世紀の一戦」と大きなニュースになりましたが、試合内容があまりにも中途半端すぎて、マスコミからは「正規の凡戦」と嘲笑われる始末でした。
しかしこの一戦は後に、両者の魂がぶつかり合った名勝負だと言われており、モハメド・アリは、自身のテーマ曲「アリボンバイエ」を猪木さんにプレゼントし、猪木さんのテーマ曲「猪木ボンバイエ」が誕生しました。
ハルク・ホーガン戦
1983年に、現在の新日本プロレスのタイトル「IWGP」を立ち上げ、その王者を決める大会を開催。(当時IWGPはまだタイトル化されていなかった)
下馬評では猪木さんが優勝するだろうと言われていましたが、その優勝戦で当時新鋭だったハルク・ホーガンの必殺技「アックスボンバー」で場外に転落した猪木さんは、舌を出して失神するという番狂わせが起こりました。
この試合は、「猪木舌出し失神事件」として新日本プロレスで語り継がれています。
闘魂ビンタと1、2、3、ダァー誕生秘話
アントニオ猪木さんといえば、希望者にビンタをする「闘魂ビンタ(別名:闘魂注入)」と、1、2、3、ダァーと叫ぶのがお約束でしたよね。
この2つはどのように生まれたのでしょうか?
闘魂ビンタ
参議院議員だった1990年に、早稲田予備校での講演中に、格闘技経験のある予備校生が猪木さんの腹部にパンチを与えたんですが、この不意打ちに準備が出来ていなかった猪木さんは、反射的に予備校生をビンタで殴ってしまいました。
これが、闘魂ビンタの始まりだと言われています。
ちなみに、ビンタをされてしまった予備校生は猪木さんのファンで、「ありがとうございました」と感謝していました。
このことがきっかけで、猪木さんからビンタを受けたい人が相次ぎ、猪木さんもそれに応えるように、例え女性であっても全力で闘魂を注入していました。
1、2、3、ダァー!
猪木さんの代名詞「1、2、3、ダァー!」は、1990年2月10日に東京ドームで行われた、アントニオ猪木・坂口征二組VS蝶野正洋・橋本真也組とのタッグマッチの試合後に初めて行われました。
最初は観客も知らないのでぎこちなかったのが、今振り返れば新鮮に思えます。
以降猪木さんは、試合の勝敗に関係なく1、2、3、ダァーを観客と一緒に叫んだり、引退後は来場したりテレビ番組に出演する際は必ずと言って良いほど1、2、3、ダァーを行いました。
流れとしては猪木さんが、「それでは皆さんご唱和ください。いくぞー!」と宣言した後、「1、2、3、ダァー!」と観客と一緒に叫ぶのがお約束です。
アントニオ猪木さん死去後について
10月13日に猪木さんの通夜が行われ、翌14日に告別式が行われました。
通夜と告別式の様子は、猪木さんのYouTubeチャンネル「最後の闘魂」で公開されています。
新日本プロレスでは、本来猪木さんの終身名誉会長就任を発表する予定だった10月10日の両国国技館大会で猪木さんの追悼セレモニーを行い、同時に来年1月4日に東京ドームで開催される新春興行「レッスルキングダム」を猪木さんの追悼興行とし、「闘魂よ、永遠なれ」の副題が付けられました。
そして後日、数万人規模の会場で、猪木さんのお別れ会が行われるとのことです。
猪木さんこそ、国葬を行うに相応しい人物ではないのでしょうか。
また、最後の闘魂では、生前の猪木さんの「最期の言葉」を話している動画も公開されています。
まとめ
今回は、10月1日に亡くなったアントニオ猪木さんの生涯を紹介していきました。
プロレスラーとして、政治家として、60年以上にわたり世界中に元気と勇気を与えてきたアントニオ猪木ですが、最期は病という最凶の敵に3カウントを奪われてしまいました。
しかし、燃える闘魂の魂は永久に不滅です!
アントニオ猪木さんのご冥福を心よりお祈り致します。
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