大相撲で外国人初の横綱となり、引退後は格闘家として活躍していた曙太郎さんが、2024年4月に心不全で亡くなりました。
54歳という若さでした。
今回は、追悼の意味を込めて、曙太郎さんについて紹介していきます。
曙太郎のプロフィール
名前:曙太郎(あけぼの・たろう)
本名:チャド・ボノ
生年月日:1969年5月8日
没年月日:2024年4月
出身地:アメリカ・ハワイ州オアフ島
身長:204cm
体重:233kg
血液型:O型
※身長・体重は現役時代
角界入門
当時、東関親方だった高見山大五郎氏に見込まれて東関部屋に入門。
1988年3月場所で初土俵を踏みます。
この1988年は「花の六三組」と言われる黄金世代で、後に3代目若ノ花(横綱)の花田虎上さんや、平成の大横綱と呼ばれる元横綱貴乃花の貴乃花光司さん、元大関魁皇の浅香山親方などと同期になります。
特に、貴乃花光司さんとは最大のライバルとして優勝争いを何度も演じ一時代を築きました。
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外国人初の横綱誕生!
初土俵から4年後の1992年、曙太郎さんは大関の地位まで上り詰め、横綱まであと一歩というところまで来ていました。
1992年11月場所では、14勝1敗というハイレベルな成績で2回目の優勝、翌1993年1月場所で13勝2敗と2場所連続優勝を果たし、場所後に「第64代横綱」に昇進し、外国人初の横綱が誕生しました。
外国人の横綱に厳しかった角界で曙太郎さんが横綱に推挙された背景には、約2年前の1990年11月場所まで在位した4人の横綱(千代の富士、北勝海、大乃国、旭富士)が全員引退してしまい、1992年5月場所~1993年1月場所まで横綱が空位だったという異常事態があったものと言われていたりしました。
貴乃花とのライバル同士で切磋琢磨し一時代を築く
ライバルだった貴乃花光司さんは、曙太郎さんが横綱に昇進してから約2年後の1994年9月場所、11場所で2場所連続全勝優勝を果たし、1994年11月場所後に「第65代横綱」に昇進しました。
そして、1990年代後半は、曙太郎さんと貴乃花光司さんとのライバル同士で優勝争いを引っ張って行く場所が頻繁に起こり、いつしか一時代を築くようになりました。
現役引退
曙太郎さんは、11回の幕内優勝を誇りましたが、2000年11月場所で14勝1敗での優勝が最後の優勝となりました。
ライバルの貴乃花光司さんが優勝を果たした翌2001年1月場所は全休しましたが、場所後に突如引退を発表したのは当時大きな話題となりました。
相撲協会退職 格闘家へ転身
現役引退後は、曙親方として東関部屋で指導をしていました。
部屋の弟弟子で元高見盛の現在の東関親方には、曙太郎さんはよく胸を貸しており、曙太郎さんが優勝を果たした時には旗手としてパレード車に同乗したことがあるというエピソードがあります。
曙太郎さんが親方となってからも指導をしていたようです。
ただ一方で、相撲協会の方針には不快感を示しており、2003年10月に相撲協会を退職し、格闘家へ転身しましt。
そして同年大晦日にK-1(キックボクシング)の興行に参戦し、ボブ・サップと対戦し、うつぶせでKO負けしたシーンは。同時刻に放送されていた紅白歌合戦を超える瞬間最高視聴率を記録しました。
その後はK-1だけでなく、総合格闘技やプロレスラーとしても活躍していました。
特にプロレスでは、自慢の巨体を活かしたパワーファイトが特徴的でした。
まとめ
今回は、外国人初の横綱で、格闘家としても活躍されていた曙太郎さんについて紹介していきました。
曙太郎さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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