2024年の大相撲九州場所は、大関琴桜と豊昇龍の千秋楽相星決戦の末、琴桜が勝って14勝1敗で悲願の初優勝を果たしました!
次の初場所は優勝した琴桜と、惜しくも優勝を逃しましたが、13勝2敗と優勝に準ずる成績を残した豊昇龍の2人が綱取りに挑む場所となり、初場所の成績次第では、初場所後に琴桜、豊昇龍の横綱W昇進の可能性もあります。
一年始めの初場所が今からとても楽しみです。
さて、九州場所中に悲しいお知らせが相撲ファンに届きました・・
NHKの大相撲中継の解説者としてお馴染みだった元横綱北の富士こと、北の富士勝昭さんが82歳で亡くなりました。
今回は、追悼の意味を込めて、北の富士さんの経歴などを紹介していきます。
北の富士勝昭さんが82歳で死去!
出典元:https://www.nikkei.com/article/DGXZQODH12C4V0S4A111C2000000/
北の富士さんが亡くなっていたというニュースが入ったのは、11月20日夜でした。
ニュースに多くの相撲ファンは驚かれたと思います。
この時期は大相撲九州場所の真っ只中だったので、ニュースの翌日21日の大相撲中継でも北の富士さんが亡くなったニュースについて取り上げていました。
そして大相撲中継の中で、北の富士さんが11月12日午前に東京都内の病院で亡くなっていたことが発表されました。
北の富士さんによると、長年解説を務めていたNHKで発表させようとしていたため、それまで敢えて公表していなかったとのことです。
今年7月の名古屋場所では、久しぶりにテレビの前に元気な姿を見せていたので体調が回復したのではと思っていましたが、9月の秋場所後に体調を崩して入院をしていたとのことです。
北の富士さんの訃報に角界のみならず、スポーツ界からも北の富士さんを追悼するコメントなどが聞かれています。
北の富士さんの葬儀は本人の意向により近親者のみで行われており、12月18日に北の富士さんの弟子である八角理事長が師匠を務める八角部屋でお別れ会が開かれる予定です。
82歳まで生きた北の富士さんは、歴代横綱では史上3番目の長寿でした。
北の富士勝昭さんの経歴!
ここからは、北の富士さんの経歴を紹介していきます。
現在の相撲ファンは、大相撲中継の解説者としての北の富士さんをご存知かと思いますが、現役時代や親方時代の北の富士さんについて知らない人も多いと思います。
現役時代の北の富士さんについては、日本相撲協会が北の富士さんを追悼する動画をYouTubeで公開していますので、そちらを見ながらお読みになってください。
入門まで
北の富士さんは、1942年(昭和17年)北海道旭川市で生まれました。
学生時代は野球に励んでおり、プロ野球選手を目指していましたが、当時出羽ノ海部屋に所属していた横綱「千代の山」に「相撲やってみないか?」とスカウトされたことがきっかけで相撲の道へ足を踏み入れました。
それが1956年(昭和31年)のことで、北の富士さんは当時14歳でした。
北の富士さんをスカウトした千代の山は、後に数多くの横綱・大関を輩出する北海道出身としては初めての横綱で、引退後は九重親方として北の富士さんの師匠となります。
当時の北の富士さんは北海道内の名門校から野球やレスリングの誘いが来ましたが、横綱から直々にスカウトされたことをきっかけに相撲に興味を持ち、中学卒業と同時に出羽ノ海部屋へ入門しました。
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初土俵~幕下時代
出羽ノ海部屋に入門した北の富士さんは、1957年1月場所で、本名の「竹沢」の四股名で初土俵を踏みました。
しかし、関取になるまでの北の富士さんはかなり苦戦を強いられており、序二段から三段目に上がるまで2年を費やしました。
そして初土俵から6年後の1963年(昭和38年)3月場所でようやく十両に昇進しました。
ちなみに、北の富士という四股名に変更したのは、1960年(昭和35年)9月場所からでした。(ただし、9月場所は全休していたため、実質翌11月場所から北の富士として土俵に上がっていました)
十両で全勝優勝!新入幕で大勝ち!
関取になってからの北の富士さんは、速攻からの投げや寄りを武器に快進撃を続けました。
現役時代の北の富士さんの取り口は、現在のモンゴル人力士のような相撲に似ていますね。
十両5場所目の1963年11月場所では、史上3人目の十両15戦全勝優勝を果たしました。
そして翌1964年(昭和39年)1月場所で新入幕を果たすと、新入幕の場所でいきなり13勝2敗の大勝ちを収めて敢闘賞を受賞しました。
破竹の勢いで三役、大関へ!
新入幕翌場所の1964年3月場所では一気に小結まで番付を上げ、入幕2場所目で三役に昇進し、同年7月場所で関脇に昇進しました。
幕下時代の苦戦が嘘のようなスピード出世です。
ただその後は少し苦戦し、大関に上がることが出来ませんでした。
1966年(昭和41年)7月場所後に大関に昇進しましたが、昇進直近3場所の合計が8勝、10勝、10勝の28勝で、直近3場所で33勝のノルマを大幅に下回っていました。
北の富士さんが大関へ昇進した経緯として、当時は1人大関だったという番付事情があったとのことです。
大関昇進について北の富士さんも「まさか自分が大関に上がれるとは思っていなかった」と述べており、伝達式の準備を全くしていなかったとのことです。
九重部屋へ移籍
大関時代に北の富士さんをスカウトした千代の山が引退し九重親方として出羽ノ海部屋の部屋付き親方を務めていましたが、九重親方が分家独立を申し出て破門となった影響で、北の富士さんは九重親方に付いて行くことを決心し九重部屋の所属となりました。(同時に出羽ノ海一門からも破門され、現在の高砂一門へ移籍した)
九重部屋へ移籍した直後の1967年(昭和42年)3月場所では、佐田の山を倒して悲願の初優勝を果たします。
しかしそこからしばらくは、10勝前後の成績が続き、中々思うような成績が出せませんでした。
横綱昇進!北玉時代到来!
1969年(昭和44年)11月場所で16場所ぶりに2回目の幕内優勝を果たし、翌1970年(昭和45年)1月場所で、再び13勝2敗で2場所連続優勝を達成し、場所後に「第52代横綱」に昇進しました。
また、北の富士さんのライバルだった「玉の海(横綱昇進までは玉乃島だった)」も、2場所連続で北の富士さんに次ぐ次点でしたが、直前2場所の成績が12勝~13勝と優勝に準ずる成績を残していたので、北の湖さんと同時に玉の海も横綱昇進を果たしました。
くしくもこの時期は、一時代を築いた「柏鵬時代」が終わりを告げ、北の富士さんと玉の海が優勝を争う「北玉時代」となりました。
ライバルの突然の死、引退へ
これから到来するはずだった北玉時代でしたが、長くは続きませんでした。
1971年(昭和46年)9月場所後に玉の海さんが虫垂炎で入院し、術後の経過は良好でしたが、その後様態が悪化し、同年10月11日に急逝しました。
玉の海さんの訃報を巡業先の滋賀県で聞いた北の富士さんは、人目をはばからず涙を流していました。
玉の海さんの訃報について、後年北の富士さんは大相撲中継の中で「ショックだった」と悔しさを露わにしました。
ライバルであり親友だった突然の別れで1人横綱となった北の富士さんは看板力士として奮闘しましたが、自身の衰えと、輪島、北の湖などが頭角を現したこともあり、1974年(昭和49年)7月場所で引退を表明しました。
幕内最高優勝10回(そのうち全勝優勝3回)
師匠として2人の横綱を育てる!
引退後は「井筒」として部屋を興していましたが、1977年(昭和52年)に九重親方の死去に伴い、九重部屋と合併する形で、九重を襲名しました。
九重親方時代は、千代の山さんから引き継いだ千代の富士さん、自らスカウトした北勝海(現在の八角理事長)を横綱に育て上げたことは有名です!
千代の富士さんと北勝海(八角理事長)の2人で「九重部屋10連覇」という離れ業もやってのけました。
相撲協会退職、NHK大相撲中継解説者へ!
出典元:https://news.yahoo.co.jp/articles/8a97fd3d417a6d0402ca84ac4b9a14bf2c15fbd4
長年九重親方として部屋を切り盛りし、相撲協会では理事まで務めた北の富士さん。
1991年(平成3年)5月場所を最後に引退した千代の富士さんに九重部屋を明け渡し(当時千代の富士さんの年より「陣幕」と名称交換)し、北の富士さんは北勝海が師匠務める八角部屋へ移籍しました。
この移籍について北の富士さんは、「千代の富士は一人でもやっていけると思ったけど、北勝海(八角親方)は俺がいてあげないとダメだ」と思っていたとのことです。
1998年(平成10年)1月場所後に理事長戦に出馬しましたが敗れてしまいました。
しかし北の富士さんは落選後にキッパリと相撲協会を退職し、翌3月場所から現役時代の四股名「北の富士勝昭」としてNHK大相撲中継の専属解説者を務めました。
横綱や師匠を経験した立場から、相撲や土俵には厳しい目で指摘することはもちろん、時にはユーモア溢れる解説で人気を博しました。
同じく大相撲中継の解説者を務める舞の海秀平さんとは意見が噛み合わないことが多く、視聴者からは「2人は仲が悪いんじゃないのか?」と度々疑われていました。
このことについて舞の海さんは北の富士さんに、「俺とお前は仲良くしちゃいけないんだよ」と言われていたと述べていました。
もちろん北の富士さんは冗談交じりだったようですが、北の富士さんらしい、ユーモアあるエピソードですね。
まとめ
今回は、先日お亡くなりになられた、元横綱の北の富士勝昭さんについて紹介していきました。
北の富士さんのご冥福を心よりお祈り致します。
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